大和物語 七十七段
私は、どこにでもいる、ゆとり第二世代(くらい)の若者である。
昨年、偶然知り合ったご婦人にお誘いをうけて、月に二回、書道教室にかようことになった。
教室では、書道の前の時間に、書道の先生が和歌にかんする講義をされているということで、また別の方にお誘いを受けて去年の夏から参加するようになった。
これまで古典にとくべつ興味はなかったけれど、しばらく講義を受けて自分が自分の住む国の民族についてなにも知らないことを自覚した。講義を受けるほど、この民族が平安時代、ある種とくべつな感受性を持っていたことを知ることになった。
先生は、古典をただ勉強するだけではなく、ぜひ今の生活に役立ててほしいとおっしゃった。この民族のやわらかな心、感受性、調和の精神、音の重要性。
縄文時代、どうして戦争がなかったか、どうして人はウタを詠んだのか、どうして五七五でなければならなかったのか。
いろいろ勉強するうちに、わたしたちは英会話をならう前に、まず日本のことをもっともっと知らなくちゃいけないと思った。
このブログは、学んだことを淡々とメモするブログです。
私は文章を書くのが苦手なので、その日の講義の内容のメモや、先生の言葉で大事だと思ったこと、あとの世代に伝えていってほしいと言われたことをだいたいそのまま書きます。
二〇一七年一月二十九日(日)
桂の皇女(宇多天皇の皇女)に嘉種(清和天皇の孫)が詠んで贈ったうた。
永き夜をあかしの浦に焼く鹽のけぶりは空に立ちやのぼらむ
訳
明石の浦で、鹽焼く煙が空高く立ち上るように貴女に戀ひこがれつつ、一睡もできないで、ながい夜を明かしました
当時は音調がなにより先であり文字は二の次だった.
よ…夜 世
あかし…明石 夜をあかす あく(開く)
うら…浦 裏
など 意味はひとつではなくさまざまを内包していた。さかのぼるほど、もっと多様だったかもしれない。
ヤマトコトバについて。
ヤ…ますます、いよいよ
マ…本当の うつくしい調和をする
ト…ところ
コト…音、事、箏、琴、殊(コトだけでもさまざまな意味がある)
ハは端っこということ。
音は当時、神聖な、おおきなチカラを持っていた。
古事記は基本的に和文だが日本書紀になると外国からきた言葉になる。
現在も四割五分が漢語(外国の言葉)。そのせいでどんどん古典が遠くなっている。
大和民族の風習である歌垣、神様と神様が語り合うこと。
(AさんがBさんにうたいかけ、BさんがAさんにかえす。)
音 によって先様へ。聴く、ということがとても大事だった。重要なことは、文字ではなく、音で語りかけたということ。音の真意が伝わることが何よりも大事であった。
外国は基本的に「私」という主語を重要視する。日本語は言語の記号化をしないところから始まっている。彼我一如の精神であり、神と私を区別しない。
神に祈る→私と神をはなしてしまう
神を祈る→私が私を尊重する
ルイス・フロイス ヨーロッパ文化と日本文化
「われわれの手紙は、たくさん記載しなけ他れば意見をあらわすことはできないが、日本の手紙はきわめて短く、すこぶる要を得ている」「われわれの間では絵にかくれる人は数が多いほど目を楽しませる。日本では少ないほどよろこばれる」「われわれは、クラヴオ(ピアノ)、ヴィオラ、オルガン、ドセイン(草笛)などのメロディによって愉快になる。日本人にとっては、われわれのすべての楽器は、不愉快と嫌悪を感じる」「われわれは、オルガンに合わせて歌う時の協和音と調和を重んずる。日本人はそれをかしましいと考え一向に楽しまない」
萬葉集の表記は、すべて漢字でおこなわれた。
平安初期には草書をさらに略記にした音標文字の開発が誰ということなく開始された。
ウタを表記するのにあたっては、草書の略体をいっそう変客させるという営みがされた。それがいわゆる連綿である。
このウタに適合した表記法は、すぐさま散文への移行も果たしていくこととなる。ウタの表記が、そのまま散文へ移行してしまう主たる理由は、ヤマトコトバがウタと言っていいからである。