二月五日(日)寛平の治 文化史精神史
国風(くにふり)の文化が宇多天皇 醍醐天皇により強力に推進されていった文化史・精神史を把握していく回。
大和物語は、村上天皇の天暦5-6(956)年とされている。
話柄は、主として陽成・宇多・醍醐朝における貴族間のうた物語。
宇多天皇について
第59代。867-931 光孝天皇の第七皇子として誕生。
天皇の崩御直前、天皇の意を察した藤原基経の推挙で21歳で即位。基経に関白させる詔を下したが、阿衡の紛議が起こり、藤原氏の専横に対する不快の念を強めた。
基経死後、嗣子(あととり)時平の若年に乗して親政にあたり、綱紀を粛正し、民政に努め、文運を興す。遣唐使の派遣を中止する。その治世は<寛平の治>と称され、国風文化の端緒となった。
菅原道真の重用。和歌にも堪能で、しばしば歌会を催された。歌合せも盛業された。
阿衡の紛議とは・・
宇多天皇即位のとき、藤原基経にあたえた勅書中の文字の解釈から起こった事件。
宇多天皇の即位は、父・光孝天皇の場合と同じく基経の配慮に負うところが多かったから、宇多帝はそれにならって勅書を基経にあたえて関白に命じた。しかし、当時の慣例で、基経は一度辞退をした。天皇はふたたびあたえたが、文中に「阿衡の佐(すけ)をもって卿の任とす」という語があった。基経の家司、藤原佐世は「阿衡とは実務に関与しない名誉職」と基経に告げたため基経は一切政治をみない態度にでた。朝廷は学者たちに「阿衡」の語について意見を述べさせた。結論がでなかったので基経は態度をあらためなかった。宇多天皇は極力、基経を説得したが聞き入れられなかったのでやむをえず、文を草した橘広相の非をみとめる宣命を発し事件は解決に向かった。
・嫉妬(橘は宇多天皇の信任が厚い学者だった。また娘が宇多天皇の女御でもあった。そのためほかの学者たちがねだみ心をもった)
大和物語 百五十三段
平城の帝、位におはしましける時、嵯峨の帝は坊におはしましてよみてたてまつれたまうける。
みな人のその香にめづる藤袴君のみためと手折りたる今日
帝返し
折る人の心にかよふ藤袴むべ色ふかくにほひたりけり
弟(嵯峨の帝)がお兄さん(平城の帝)に花をおくったうた。
桓武天皇の第一皇子。薬子を後宮に迎えた。薬子は皇太子に取り入り、後宮の秩序を乱した。桓武天皇は激怒し、薬子を後宮から追放した。806年桓武帝が崩御し、安殿(平城)が帝位についた。まもなく薬子は宮中へ呼び戻され、尚侍(なつしのかみ)となる。薬子は天皇の威を借りて傍若無人のふるまいをし、兄の仲成も加わった。平城天皇は病がちでノイローゼぎみだったこともあり薬子の言いなりのような状態であったという。(つづく)
こういった、側近による悪慣行の影響が宮中に蔓延していた。
阿衡の紛議(天皇の言ったことをつっぱねる)、薬子の變(妄言、虚栄、悪計、嫉妬、計算高さ)など、人々はヤマトコトバの心をわすれていった。
○外来文化の日本化をすすめる時期にあたっていたこと
うたの表記について。
現在・・・ みな人のその香にめづる…だが。
平安初期、いわゆる万葉仮名が入ってきた。
美那比度乃曽能可爾米豆留…
これが、宇多天皇の時代、国風文化を推進し、約100年かけて平安中期に独自の表記を開発した。(いわゆる連綿)
なぜ宇多天皇は国風文化を推進したか。遣唐使の派遣を中止したか。
今は5つだが、昔は母音が8つあった。奈良、縄文・・古代にさかのぼるほど母音は多かった?文字がない世界に複雑なことをつたえる必要があるときも、昔はコトバを複雑に使い分け・聞き分けていたため問題がなかった。音調。どのように言うか、どのように伝えるかが非常に洗練されていた。相手の耳に心地よく聞こえるように。
大和物語 七十七段
私は、どこにでもいる、ゆとり第二世代(くらい)の若者である。
昨年、偶然知り合ったご婦人にお誘いをうけて、月に二回、書道教室にかようことになった。
教室では、書道の前の時間に、書道の先生が和歌にかんする講義をされているということで、また別の方にお誘いを受けて去年の夏から参加するようになった。
これまで古典にとくべつ興味はなかったけれど、しばらく講義を受けて自分が自分の住む国の民族についてなにも知らないことを自覚した。講義を受けるほど、この民族が平安時代、ある種とくべつな感受性を持っていたことを知ることになった。
先生は、古典をただ勉強するだけではなく、ぜひ今の生活に役立ててほしいとおっしゃった。この民族のやわらかな心、感受性、調和の精神、音の重要性。
縄文時代、どうして戦争がなかったか、どうして人はウタを詠んだのか、どうして五七五でなければならなかったのか。
いろいろ勉強するうちに、わたしたちは英会話をならう前に、まず日本のことをもっともっと知らなくちゃいけないと思った。
このブログは、学んだことを淡々とメモするブログです。
私は文章を書くのが苦手なので、その日の講義の内容のメモや、先生の言葉で大事だと思ったこと、あとの世代に伝えていってほしいと言われたことをだいたいそのまま書きます。
二〇一七年一月二十九日(日)
桂の皇女(宇多天皇の皇女)に嘉種(清和天皇の孫)が詠んで贈ったうた。
永き夜をあかしの浦に焼く鹽のけぶりは空に立ちやのぼらむ
訳
明石の浦で、鹽焼く煙が空高く立ち上るように貴女に戀ひこがれつつ、一睡もできないで、ながい夜を明かしました
当時は音調がなにより先であり文字は二の次だった.
よ…夜 世
あかし…明石 夜をあかす あく(開く)
うら…浦 裏
など 意味はひとつではなくさまざまを内包していた。さかのぼるほど、もっと多様だったかもしれない。
ヤマトコトバについて。
ヤ…ますます、いよいよ
マ…本当の うつくしい調和をする
ト…ところ
コト…音、事、箏、琴、殊(コトだけでもさまざまな意味がある)
ハは端っこということ。
音は当時、神聖な、おおきなチカラを持っていた。
古事記は基本的に和文だが日本書紀になると外国からきた言葉になる。
現在も四割五分が漢語(外国の言葉)。そのせいでどんどん古典が遠くなっている。
大和民族の風習である歌垣、神様と神様が語り合うこと。
(AさんがBさんにうたいかけ、BさんがAさんにかえす。)
音 によって先様へ。聴く、ということがとても大事だった。重要なことは、文字ではなく、音で語りかけたということ。音の真意が伝わることが何よりも大事であった。
外国は基本的に「私」という主語を重要視する。日本語は言語の記号化をしないところから始まっている。彼我一如の精神であり、神と私を区別しない。
神に祈る→私と神をはなしてしまう
神を祈る→私が私を尊重する
ルイス・フロイス ヨーロッパ文化と日本文化
「われわれの手紙は、たくさん記載しなけ他れば意見をあらわすことはできないが、日本の手紙はきわめて短く、すこぶる要を得ている」「われわれの間では絵にかくれる人は数が多いほど目を楽しませる。日本では少ないほどよろこばれる」「われわれは、クラヴオ(ピアノ)、ヴィオラ、オルガン、ドセイン(草笛)などのメロディによって愉快になる。日本人にとっては、われわれのすべての楽器は、不愉快と嫌悪を感じる」「われわれは、オルガンに合わせて歌う時の協和音と調和を重んずる。日本人はそれをかしましいと考え一向に楽しまない」
萬葉集の表記は、すべて漢字でおこなわれた。
平安初期には草書をさらに略記にした音標文字の開発が誰ということなく開始された。
ウタを表記するのにあたっては、草書の略体をいっそう変客させるという営みがされた。それがいわゆる連綿である。
このウタに適合した表記法は、すぐさま散文への移行も果たしていくこととなる。ウタの表記が、そのまま散文へ移行してしまう主たる理由は、ヤマトコトバがウタと言っていいからである。